教育コラム6月号~片山豊

まだ「学歴主義」…?!

先月とある新聞社の教育コラムに掲載されていた、都内私立学校(小・中)受験事情の記事に驚きを隠せない。私立学校進学希望者が年々増加傾向にあることは理解できるが、お受験の低年齢化が進み、幼児や児童の生活が「受験」中心となり、心を閉ざしてしまう子どもの報告があるとのこと。「楽しい」はずの幼児学習が「苦しい」お受験学習となり、子ども達におそいかかっているのだ。自分たちが経験してきた「受験地獄」から、大人たちはいったい何を学んだのだろう。これでは、何のための「教育改革」であったのかと落胆する。

「主体的な学び」は、幼児や児童自らが「学ぶ」ことに関心を持ち、自身のすでに備わっている才能を開花させるためのものであり、他人の尺度による一定水準の「受験学力」を身につける事ではない。これまでの日本の教育尺度は、「受験」の為の「偏差値」にその基準を置いていたために、「高偏差値」を頂上とする階層が子ども達の「自由な学び」を否定し、「偏重教育」と呼ばれる歪にパターン化された「序列型学校群」を形成してきた。

その中で「学校」は、「建学の理念」に基づく「特色ある教育」が評価されることなく、偏差値による「数値」によって、そのすべてを評価された。それは、もう「人間」としての教育機関ではなく、「パーツ」としての労働者養成機関であった。わずか15歳や18歳で残りの人生がほぼ決定するという恐ろしい「構造的社会」に組み込まれてしまう。

人間の教育における基本は、「その個人を如何に幸福にするか」という一点である。つまり、空っぽのコップ(器)に知識の水を注ぐということではなく、すでにある素材(才能)がどのようなものであり、それをどの様に活用させることが、本人の望みなのかを理解し、サポートすることが「教育」という「業」である。その為には、先ずは、本人としっかりと向かい合うことから始めなければならない。これまでの日本の教育機関は、真逆の対応をしてきたと言える。「偏差値」という定められた基準で、「社会」が「有用」と判断する人間の「ふるい分け」をしてきたといえる。これでは、誰のための「教育」であったのだろう。それは、間違いなく「個人」ではなく「(企業体)社会」である。だから、日本人の「幸福感」や「自己肯定感」が長年育まれずに放置されてきたのだ。その反省を込めた、今回の「教育改革(主体的な学びを基本とする個別最適化と社会創造のための協働的な学習)」であったはず。

幼児期における教育は、本当に大切だ。それは、人生を主体的に生き抜くための「価値観」が形成される「根」の時期だからである。

株式会社078 CSO(事業戦略オフィサー)

078保育園教育事業部長

片山 豊

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